半藤一利さんが遺した「日本人の宿題」

  今年の一月で、作家の半藤一利さんが亡くなってから1年が経過した。半藤さんは「昭和史」シリーズを始め数多くの戦争関連の書籍を著し、日本がなぜ戦争という過ちを犯したのかを検証し続け、晩年は再び日本が同じ過ちを犯すのではないかと危惧されていた。その半藤さんの一周忌にあたり「日本人の宿題~歴史探偵、平和を謳う~」という新書が出版された。NHKのラジオ番組での発言を再構成したもので、「戦争というものは、本当に人間がやってはならない一番最大の悪である」というメッセージが込められている。そして、戦争を起こさないために「昭和史を知ることは、わたしたち日本人とは何者かを知ること」であり、「歴史を自分で学んでいくことを積極的にやってください」という宿題をわたしたちに遺している。
  半藤さんが特に危惧していたのは、集団的自衛権を容認する「安保法制」の成立による憲法九条の空洞化から国家総動員法ともいうべき「緊急事態条項」を含む改憲の動きだ。そして、その動きに順応するような世論の状況が、昭和十三、四年頃に似ていることだった。半藤さんは現在の憲法について「日本が戦争をしない国であることを世界に宣言することがいかに大切であるかをこの憲法は訴えている」と主張し、盟友である歴史家の保阪正康さんと「この憲法を百年持たそうという運動」を進めていた。そして、講演の折に「この憲法を百年持たせたらいいのではないか。そうすればこの憲法の精神は国家そのものの意思になる」というセリフを口にしようと決めていたそうである。不戦、非戦が「国家の意思になれば国際社会でも公然と認められる」、「そのような国になること、その手段になりうるのがこの憲法であるとの認識を共有することが意味を持つ」と述べている。
  現在、自公政権や維新の会などの改憲勢力は、北朝鮮や中国の軍事的脅威に対して、敵基地攻撃能力保有の議論を進めている。また、プーチン政権によるウクライナ侵略と核兵器使用発言に便乗する形で、アメリカの核兵器を日本にも配備し共同で運用する「核共用」まで言い出している。しかし、「国民の命を守るため、自衛のためだ」と言って敵基地攻撃能力の保有や核共用による核兵器の使用を自らに認めることは、相手にも敵基地攻撃能力や核使用を認めることに他ならない。日本は憲法九条によって「不戦、非戦の国」であることを示し、「専守防衛」を国防方針にすることで「他国を攻撃しない国」であることを示してきた。たとえ建前上であっても、この専守防衛にこだわることで、周囲の国を刺激せずに防衛力を高めることができたのである。それを国会で「敵基地攻撃能力を持つべきだ」などと議論をすれば、周囲の国を刺激するだけで、むしろ脅威は増すことになる。戦後日本は、七十七年間、一度もどこの国とも戦火を交えることなく、他国との戦争で人を殺したり、殺されたりしたこともない。このような国は先進国の中で日本だけであり、それは憲法九条のもとで「専守防衛」をなんとか堅持してきたからである。今日本が、憲法九条を改変し、敵基地攻撃能力や核兵器を保有するかどうかを議論すること自体が、日本のリスクを高め、日本を攻撃する口実を与えていることに気づくべきだ。
  三月に行われた毎日新聞の世論調査で、日本の安全保障や台湾有事への不安が「強い」と「ある程度」を合わせて90%近い数字となり、「核共用の議論をすべき」が57%という結果になっていた。国民の不安をあおり、それに乗じて軍拡化を進めるという改憲勢力の意図通りに進んでいることになる。しかし、この方向が破滅への道であり、真の安全を保障するものでないことは、ヒトラーや大日本帝国が起こした侵略戦争の結末が歴史的に明らかにしている。真の安全保障のために日本がすべきことは、「戦争を国際紛争解決のための手段として使わない」という、日本の平和憲法を世界に広める努力をすることではないだろうか。半藤さんが遺した「戦争を起こさないために、歴史を学べ」という「日本人の宿題」は、こうしたことを私たちに期待してのものだろう。ならば、「戦争をしない国」から「戦争をする国」への分岐点に立つ令和の今、「戦争をする国」から「戦争をしない国」へという昭和の歴史を学び、その歴史的成果としての平和憲法を守り世界に広めていくことが、半藤さんの遺志を引き継ぐことであり、世界平和のために日本がすべきことであろう。

大井九条の会代表・田村嘉浩

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