2017年8月19日 「平和の思いを語る会」を開きました
オカリナ、篠笛の演奏の後、日高康弘さんの強制疎開による島根県での中学時代の過酷な経験、井上城司さんの満州から引き揚げ時に多くの犠牲者を見送ったことなど、現実に体験した人ならではのリアリティーのある話に60人の参加者が引き込まれました。
日高康弘さんの話(要約)
昭和19年、中一の時、東京での強制疎開(空襲による大火災を防ぐため、百メートルくらいの幅で家を強制的に壊し、空き地にする)のため島根県に転居した。中一では、学徒動員に次々と上級生が駆り出されそのたびに、「軟弱だ」と全員が殴られた。中二になると、政府は全国の中学校に学徒動員を指示した。農家手伝い、松から油(松根油)をとる作業だった。
夏になると車や徒歩でほぼ一日かけて、ある小学校に行かされた。講堂に百人が雑魚寝で夜を過ごし、山の中腹まで、木材を担いで防空壕作りの補助作業を強制された。一日に握り飯一個のため空腹と、肩に食い込む木材がつらい毎日だった。
防空壕は、そこから米軍を竹槍でやっつけるという目的でつくられたが、何の役にもたたず廃墟となっている。戦後、この場所を探しあてたが、そこで小学生が戦争中の記録として、中学生が防空壕を作るため大変な苦労をしたことを、絵や作文で残す授業をしていることを知り大変感動した。
戦争とはひどいもの、一番つらかったのは空腹、配給のお米は一か月あたり一週間分しかなかった。
どこの国も自衛のためといって戦争をはじめる。考えなくてはいけない。
井上城司さんの話(要約)
終戦の8月15日、国民学校(現在の小学校)4年生で、父親の勤務の関係でチチハルに住んでいた。
関東軍(日本陸軍)が去った後、進軍してきたソ連軍は昼間は強奪、夜は女を求めて侵入してきた。その後に町を支配したのは国府軍だった。終戦の年の秋の終わり頃、各地からたくさんの人がチチハルに集結し始めた。ほとんどが開拓団の人たちで、苦難の逃避行の末たどり着いた人たちだった。その冬、零下20度にもなる気候の中で、はしかの流行もあり、バタバタと死んでいった。土饅頭が増えてきて、埋めるところがなくなると、冷凍マグロのようになった死体を郊外の大きな穴にまとめて葬られたということだ。半数は亡くなったのではないか。その後、国府軍と中共軍との戦闘があり、中共軍が町を支配し、治安は初めて好転した。
昭和21年9月13日にチチハルを出て10月半ばにコロ島に着き、10月21日佐世保に帰ってきた。
新制中学に入り、「新しい憲法の話」で勉強した。是非ご覧になって欲しい。UNESCO憲章に「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。」とある。私は英語教師でしたので「英語を含め言葉は人と人の心を結ぶもの心が通い合えば戦争は起きません」と言いたい。
憲法九条は変えるべきはありません。
会場からは6人の方の発言がありました。最初に発言されたAさんは、5才の時に体験された甲府空襲(昭和20年7月)について話され、むごたらしい死体がいまでも頭から離れないこと。戦後しばらくは戦争恐怖症が直らず、いまでもプロペラの音は誰よりも早く聞き取れること。憲法九条は絶対守らねば、と強調されました。そのあと4人の発言の後、「大井町平和都市宣言を生かしたい」との発言で終わり、全体的に好評のうちに散会となりました。
参加者には、受付時に「戦時体験集Ⅱ」(A5版37頁)を配布しました。
本冊子をご希望の方には一部100円でお分けいたします。但し、在庫がなくなった場合には
多少遅れる場合がございます。