76回目の終戦の夏に寄せて ~コロナ禍の今こそ国民の命と生活を守る政治の実現を~


大井九条の会代表 田村嘉浩

 八月は「八月ジャーナリズム」という言葉があるように、テレビや新聞などで「戦争」に関わる番組や記事が特集され、戦争について改めて考え、平和への願いや不戦の誓いを新たにする月になっている。今年は、昨年に続いてコロナ禍の、しかも緊急事態宣言下である上に、オリンピックが重なり、静かな気持ちで八月を振り返るという雰囲気ではなかったが、かえって現在の国や菅政治のあり方について考える機会になった。

 菅義偉首相は、広島市の平和記念式典のあいさつで、前年の安倍晋三首相のあいさつを踏襲する形で読み進める中で、安倍首相のあいさつにはなかった「黒い雨」訴訟について、首相自身の判断で政府として上告を断念した意義を強調している。そして、原告の84人に被爆者健康手帳交付の手続きを完了したことを報告し、同じような事情にあった方への救済も早急に検討を進めると述べている。これは、国が指定した援護対象区域外であったことを理由に、放射能を帯びた雨で被爆しても今まで「被爆者」と認められなかった人々にも、広く救済の道が開かれたことを意味するが、その上告断念の経緯を考えると素直に歓迎することはできない。

 広島高裁の判決について政府内では当初、救済対象が大幅に広がる懸念や「科学的・合理的な根拠がない」と退けてきた過去の判例との整合性の問題から上告の意向だった。しかし、コロナ対応やオリンピックの開催判断を巡り世論の批判が強まり、七月の各種世論調査で内閣支持率が相次いで政権発足以来最低を記録する中で上告すれば、さらに支持率を下げかねないという懸念もあった。衆院選を控え世論を気にした菅首相は、政治決断を迫られ上告を断念することになった。首相は記者団に、「多くの方が高齢者で病気をお持ちの方もいる。速やかに救済させていただくべきだとの考えに至った」と上告見送りの判断理由を説明しているが、その一方で、判決が認めた放射能汚染による内部被曝の部分は絶対に許容できないとも述べている。ここには、被爆で長年苦しんできた被爆者に寄り添う姿勢も、判決によって否定された国の被爆者認定条件の不合理を認める謙虚さもない。あるのは内閣の延命のために、被爆者を利用して被爆者に寄り添う姿勢を演出する菅政治の冷酷さや浅ましさである。

 また菅首相は、全国戦没者追悼式の式辞の始めに、「先の大戦では、300万余の同胞の命が失われました。」と述べているが、その多くの命を奪った戦争を誰が起こしたのかを明らかにせず、国の責任を曖昧にしている。このことが、国が戦争の責任を取らず、「戦争の犠牲や損害は国民が等しく堪え忍ばなければならない」とする「戦争被害受任論」となり、戦争被害者の救済を阻み戦後も苦しめ続けることになった。

 今、同じことがコロナ禍の日本でも起こっている。菅政権は八月に入り、コロナ患者の入院を重症患者や重症化リスクの高い人に制限し、それ以外は原則自宅療養とする方針を唐突に表明した。容体が急変するコロナウィルスの場合、「自宅療養」は「自宅放置」であり、患者切り捨てを意味する。実際に自宅療養中に、容体が急変しても入院先が見つからず、死に至るケースが相次いでいる。菅首相はデルタ株による感染急拡大で医療体制の逼迫状況が進み、入院患者を絞り込むことで、重症患者や高リスク患者に「必要な病床を確保する」ためと強調しているが、こうした状況になった原因は菅政権の間違ったコロナ対策にある。後手後手の対応に支持率が下がり続けることに危機感を持った菅政権が、オリンピックを開催し成功させることで政権維持を図ろうとしたことが結果的に「災害的状況」をもたらしたのであり、菅政権の責任は大きい。

 政治は国民の命と生活を守るためにある。憲法の前文に「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」とあるが、国民の命と生活を脅かすものは戦争だけではない。76回目の八月に、戦争について考え、現在の菅政権を振り返った時、あらためて国民の命と生活を守る政治の実現を願わないではいられない。

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