生きることは政治的なこと

 このところ小生が思っていることは、このことです。

 生きて、生活を営んでいくことは、必然的に政治的に絡まざるを得ない。なぜなら、社会から隔絶してひとりで生活していくことは出来ず、何らかの形で社会と連携することが必須であり、その社会の方向付けのために、政治が運営されている訳だから。たとえば、ふたたび戦争に陥ることがないように、この社会の方向付けが正当かどうか、ひとり一人で日々状況を感知しつつ、判断し行動することが、今を生きていることだと、自戒を込めつつ、思っています。

 先の戦争の経験を通して、「戦争はもうこりごり!」と反省して、現在の平和憲法を作ってきた筈ですが、果たしてその方向付け、憲法の精神はいま各人の気持ちの中にどのくらい浸透し、根付いているでしょうか。ともすると、日々の暮らしに追われ、世の中におかしな動きがあることに気づいても、それを「おかしい!」と声に出したり、「反対!」と行動したりすることまでには二の足を踏むことが多いのでは、と思われます。そのように表立って何も反応を返さないことは、結果としてそれを黙認し、内諾を与えてしまうことになっています。自分自身のこととしても、それが頭では分かっているつもりでも、意見表明や、行動にまでつなげることには内心の葛藤があり、「我ながら民度なお低い!」と思っていたりします。

 さて、現代においてもなお、『力こそ正義!』という信仰が世にはびこっている状況が続いていると理解されます。その根拠は、国連安保理事会が、そのような勢力の張り合いで成り立っていることからも端的に分かります。このような状況は、この世界のメジャーな人々がその信仰を持っているということからもたらされていると、考えられます。しかし、その信仰を追求すれば、いずれふたたび戦争に陥る可能性が高まることは、これまで幾度も歴史で経験してきたはずです。武力や経済力で相手を威嚇し、屈服させることでは、相互の信頼関係は決して築けないことは、嫌というほど経験してきたはずです。『力に依らずに信頼関係をいかに構築していくかを、政治に強く求めていく』ことが、平和追求に今最も必要なことではないでしょうか。そのためにも、より多くの人々の信仰が変わる必要があります。

KN記

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